弘法大師が修行された和歌山のお寺
ーふくしょうじー
福勝寺
[山号]岩屋山
[院号]金剛寿院
[宗派]高野山真言宗
[本尊]千手千眼観世音菩薩
[開山]弘法大師
[文化財]
国指定重要文化財/本堂・求聞持堂・鐘楼
県指定文化財/境内(熊野参詣道紀伊路)
市指定文化財/名勝 裏見の滝・五輪石塔・自然石版碑
縁起
当山は人皇第五十第桓武天皇の時代、延暦二十三年(804年)一月十八日 弘法大師 空海 三十一歳の時、藤白峠を越え当地区通行の砌、岩屋山の瀧本にて御修行をされたと伝わる寺院です。(岩屋山 当山旧記帳)
入唐求法海路無難の御請願をたてられ、三十七日間護摩を焚き、求聞持秘法の修行をされ、千手観世音菩薩、虚空蔵菩薩、瀧本の不動明王等の尊像を残されました。
江戸時代には、紀州徳川家の初代藩主 徳川頼宣公からも厚く信仰を受け、求聞持堂という紀州藩主の祈祷所が建立され、その後は紀州藩主縁の厄除けの名所として現在に至ります。
千手千眼観世音菩薩
本尊 千手観世音菩薩は、『旅立乃観音 厄除乃観音 雷除乃観音』の御利益があり、瀧本の不動明王石造は護摩修行本尊とされ、『旱魃請雨(かんばつしょうう)』の霊験があると伝えられています(岩屋山当山旧記帳による)。
その後の空海足跡は、同年四月七日に出家、同五月二十三日に遣唐使船に乗り難波を出発した。
弘法大師 空海が後世に遺した
『旅立の観音』
『厄除の観音』 のご請願
『雷除の観音』
本尊の『千手千眼観世音菩薩』は、唐へ渡る直前の弘法大師が『旅立の観音、厄除の観音、雷除の観音』と3つのご請願を立て安置されたと寺伝に記されています。
本堂(国指定重要文化材)
桁行 三間 梁間 三間
寄棟造
本瓦葺及び桟瓦葺
正面側一間を外陣、その奥を内陣とし、側面三方に切目縁を廻らし、背面軒下に床を張って後堂とした内部は外陣を結界で仕切り、背面壁に接して中央に禅宗様式須弥壇を構える。
現在の本像の建立に関する史料は、残念ながら喪失しているが、堂内に永正十二年(1514年)の墨書が残り、細部の様式や技法からみて十五世紀後期の建立と判断される。
求聞持堂(国指定重要文化材)
桁行九,六m
梁間五,二m
正本瓦葺東半を宝形造とし、西半取合部は屋根をを両下げ、仏壇を構えた能満堂と東室を中心に正面一間通りを外陣、両方取合部を介して本堂に接続。現存する求聞持堂では日本最古であり、国の重要文化財として指定されている求聞持堂は極めて珍しい。
徳川頼宣(南龍公)
徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。
常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は、養珠院(お万の方)。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。
寅年生まれであった為、当山の虚空蔵菩薩を自身の護り本尊として深く帰依し、能満堂(求聞持堂)を建立し、藩主や子孫の繁栄を祈願した。
その後もことある毎に、家来衆や女中衆が参詣を重ね、寛文㈣年(1664年)十月には彗星が出現し、不吉の前兆として、当山で星供養祈願を厳修したと記されている。仏壇には徳川藩主徳川頼宣、江戸幕府第二代征夷大将軍 徳川秀忠などゆかりの人物数名が位牌として祀られ、徳川家ゆかりの寺院である。
鐘楼(国指定重要文化材)
名号堂
蓮如上人旧跡の石碑があり、
名号堂が建てられています。
昔、海南市冷水浦に喜六大夫というものがおりました。子どものことで深く悩み、当山の観音様におすがりしたところご利益を授かり、蓮如上人に引き合わせてもらい救われました。そうした経緯からここに蓮如上人直筆の六字名号を奉納されたと伝えられています。
名勝 裏見の滝(海南市指定文化財)
初代紀州藩主 徳川頼宣が
滝の裏からも見えるので
名づけたと言われています。
修験道の行場としても栄え、
京都の聖護院や三宝院は共に
修験道の総本山ですが、
毎年熊野詣に峰入りした際は、
御門跡が100~200人もの修験者を連れ、
ここ福勝寺に宿泊や休憩することが慣習となっていました。
不動明王
福勝寺旧記帳にこの不動明王は
弘法大師の御作と伝えています。
昔々の日照りの時、雨乞いのため
この不動明王を滝壺の石窟に移して
そこで雨乞いの祈祷を行ったと記しています。
六本樹の丘
みかん発祥の地
西暦七十一年頃、みかんの原種「橘」が
我が国に初めて移植された所と伝えられています。
福勝寺の拝観について
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